MIU404最終回を見て感じた、現実と創作の境界線が曖昧になる感覚について
「MIU404」は本当に面白いドラマでしたね。
おかげ週末がやってくるのが本当に楽しみな、そんな生活を送ることができました。
最終回もとても面白かったのですが、今回は「現実と創作の境界線が曖昧になる」感覚があったので、その点について語ろうかなと思います。
お話する内容の性質上ネタバレが含まれておりますが、その点はご了承ください。
あるかもしれなかった未来
物語の中盤、拘束され気を失い、ある夢を見た志摩と伊吹。
その内容は、刑事としての正義を捨て、感情に任せた私刑を執行してしまうものでした。
これは伊吹にとって、「刑事を捨てても許さない」というガマさんと同じ過ちを犯してしまうものであり、志摩にとっても回避しようと行動した(そして結果的に間違った行動をとった)ことによる内容でした。
シリーズを通して語られていた「人生における数々のスイッチ」によって分岐した未来だったわけです。
その後、2020年になり、東京オリンピックが開催されるシーンが描かれます。
現実には2020年の東京オリンピックは中止になりましたから、これは私たちにとっても”あるかもしれなかった未来”であり、私たちにとっては”起きてはいない現在”です。
東京オリンピックを使って、志摩と伊吹がみた夢は”あるかもしれなかった未来”なんだよと示唆したわけですね。
演出的にも素直に上手いなぁと感じました。
現実と創作の境界線
この東京オリンピックが開催されていたかもしれない未来は、私たちの現実に起こり得なかった内容ですから、より一層この展開がフィクション(創作)であることを印象づけています。
ですが、最後に東京オリンピックは中止になり、マスク姿の二人がいる。
一方で、こうも感じるわけです。
ああ、東京オリンピックが中止となり、マスクをすることが日常となっている。
これは現実の世界かもしれない、と。
「MIU404」というドラマの中で”私たち”の現実には起こりえなった未来を描いたことで、マスク姿で登場する二人のシーンが”私たち”に起こっている現在のようにも感じられるわけです。
まるで、フィクションの中のノンフィクションのような、そんな現実と創作の境界線が曖昧になる瞬間。
僕にとってこのシーンは、そういう奇妙な感覚を持った瞬間でした。
人によって感じ方は違うでしょうし、この感じ方が正解であるというわけでもありません。
「MIU404」というドラマは現実にも起きている社会問題を取り上げたり、感情に訴えかけるような終わり方をしたり、はたまた「アンナチュラル」とのクロスオーバーがあったりと、もう本当に見どころがたくさんで多様な楽しみ方を受け入れてくれるドラマです。
そんな多様な楽しみ方ができるドラマだからこそ、僕はこうした感想を抱くことができたのかなと思いました。
続編、あるかなあ。
アンナチュラルのときも思ったけど、作らないほうが美化されて良いかもしれないなあ。
でも「アンナチュラル×MIU404」のような、がっつりクロスオーバーするスペシャル特別編があったら、それはもう泣いて喜んじゃうんだろうなあ。
なんて、そんな妄想をしてしまうくらい、楽しいドラマでしたね。
キャストおよびスタッフの皆さん、素敵なドラマをありがとうございました。